彦根市内の井伊直弼公にゆかりのあるスポットをご紹介します。
直弼公は、17歳から32歳までの15年間を埋木舎で過ごしました。禅や武術、兵学、和歌・国学、陶芸、華道、政治、海外事情など文武両道にわたり、「なすべき業(すべ)」を見出し、全力を傾けました。
直弼公は、文化12年(1815)10月29日、11代藩主・直中の14男として、槻御殿で生まれ、17歳までここで過ごしました。 直弼公が生まれる3年前から、父・直中は家督を次男の直亮に譲り、槻御殿で隠居生活を送っていました。直中は、屋敷に能舞台を設け、能楽師を召し抱えるほど造詣が深く、直弼公にとっても能は身近な存在でした。※内部は非公開
お浜御殿は、11代藩主直中により文化7年(1810)頃に琵琶湖畔に造営された下屋敷です。城内のもうひとつの下屋敷、槻御殿とは立地や趣も異なり、ごく私的な別荘地として使われていたようです。直弼公の時代には、「がけ之御茶屋」「南台之御茶屋」「通天之御茶屋」「菊之御茶屋」の4棟の茶室も庭園内に設けられていました。茶室は現存しませんが、礎石が一部残っています。※整備中につき入場不可。11月21日〜30日のみ限定公開
直弼公は、埋木舎時代より文武に励み、いずれもその道を極めていきます。和歌においても秀で、自作の和歌集を編纂したほどでした。いろは松横の歌碑には、辞世の句「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」が刻まれています。
玄宮園に隣接する金亀児童公園に、直弼の銅像があります。 銅像は、正四位上、左近衛権中将という井伊直弼が天皇からいただいていた位階に相当する正装で立っています。 この姿から、直弼は天皇に仕える立場として、国政を率いたことによる位の高さがわかります。直弼の威信回復を願う人々は、直弼は決して天皇を無視して開国の条約を結んだのではないとの姿勢を表明するためにこのような姿で顕彰したといえるでしょう。
桜田門外の変で、直弼公が流した血が染みこんだ土は彦根に運ばれ、直弼公最期の衣装類と共に天寧寺の境内に埋められました。直弼公の供養塔のそばには長野主膳の墓、そしてその背後に村山たか女の碑がひっそりとあり、眼下には彦根のまちなみが広がっています。
龍潭寺の露地庭には、茶室「飄々庵(ひょうひょうあん)」があります。埋木舎時代の直弼公はここでたびたび茶席を設けており、彦根城外で使った茶室のなかで現存するのはここだけとされています。また、書院東庭の趣はすばらしく、直弼公は「世間にすむとにごるのあともなく、この池水のいさぎよきかな」と讃えました。
直弼の腹心だった長野主膳(義言)は、文久2年8月27日(1862年9月20日)、彦根藩の藩命により四十九町(現・城町一丁目)の牢屋前で斬首されました。亡骸は牢屋の前庭に埋められたそうで、「義言地蔵」は、主膳の門人であった中村長平がその上に石の地蔵尊を祀ったものです。
弘道館の建物として唯一現存する金亀会館は、藩校弘道館の講堂で、大正12年に現在地に移築されたものです。直弼公も「弘道館」で学び、嘉永3年(1850)に13代藩主に就いてから1年後、藩政改革の重要な案件の一つとして藩校の改革に着手しました。※内部は非公開
湖東焼は、江戸時代後期から明治中頃にかけて彦根で焼かれた焼物で、直弼公の時代に黄金期を迎えます。直弼公は、湖東焼の経営システムを改革すべく、最良の原料や燃料を使わせ、各地から優れた職人を招き、新たな人材育成にも力を注ぎました。