和暦 | 西暦 | 年齢 | 立場 | 居所 | 事柄 |
文化12年 | 1815年 | 1歳 | | 槻御殿 | 10月29日 彦根城下屋敷の槻御殿(けやきごてん)に生まれる |
文政2年 | 1819年 | 5歳 | | | 母お富の方死去(35歳) |
文政10年 | 1827年 | 13歳 | | | このころから、清凉寺で禅学などを学び始める |
天保2年 | 1831年 | 17歳 | | | 5月、父直中死去(66歳) |
天保2年 | 1831年 | | | 埋木舎 | 11月、弟直恭(なおやす)と尾末町の北の御屋敷(埋木舎)に移る |
天保5年 | 1834年 | 20歳 | | 埋木舎 / 江戸 | 7月、延岡藩主内藤家の養子候補となり、江戸に行くが、弟直恭が選ばれる |
天保5年 | 1834年 | | | 江戸 | 冬、『うもれぎのやの言葉』を記し、埋木舎で文武の道に生きる決意をする |
天保13年 | 1842年 | 28歳 | | 埋木舎 | 11月、長野義言(ながのよしとき)と初めて対面し、国学・和歌の弟子となる |
天保14年 | 1843年 | 29歳 | | | 長浜大通寺より、直弼を住職の跡継ぎとする話が持ち上がるが、成立せず |
弘化2年 | 1845年 | 31歳 | | | 10月、『入門記』を著し、石州流(せきしゅうりゅう)茶道の一派を立てることを宣言する |
弘化3年 | 1846年 | 32歳 | 世継 | | 1月、彦根藩世子直元(直弼の兄)が死去(37歳)し、彦根藩の世継となる |
弘化3年 | 1846年 | | | 江戸 | 2月、初めて江戸城へ登城し、将軍に対面する |
弘化4年 | 1847年 | 33歳 | | | 2月、海防のため相模国三浦半島(神奈川県)の警備につく(相州警衛) |
嘉永3年 | 1850年 | 36歳 | 藩主 | | 11月21日、彦根藩主となる |
嘉永3年 | 1850年 | | | | 12月、先代藩主直亮の遺金15万両を家臣や領民に分配する |
嘉永4年 | 1851年 | 37歳 | | | 3月、相州警衛地を巡見する |
嘉永4年 | 1851年 | | | 彦根 | 6月、藩主として初めて彦根に入る |
嘉永4年 | 1851年 | | | | 9月より領内巡見を開始。安政4年まで9度に分けて領内全域をめぐる |
嘉永5年 | 1852年 | 38歳 | | 江戸 | 8月、丹波亀山藩主松平信篤の妹昌子を正室に迎える |
嘉永6年 | 1853年 | 39歳 | | | 3月、日光東照宮に参拝。帰途、彦根藩領の下野国佐野(栃木県)を巡見する |
嘉永6年 | 1853年 | | | | 6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦を率いて浦賀に来航 |
嘉永6年 | 1853年 | 39歳 | | 彦根 / 江戸 | 7月、ペリー来航の知らせを受けて、江戸へ向かう |
嘉永6年 | 1853年 | | | 江戸 | 8月、2度にわたり幕府へ意見書「初度存寄書(しょどぞんじよりがき)」「別段存寄書(べつだんぞんじよりがき)」を提出 |
嘉永6年 | 1853年 | | | | 11月、彦根藩、相模から江戸湾(羽田・大森)へ警衛地が変わる |
安政元年 | 1854年 | | | | 4月、彦根藩、京都守護を命じられる |
安政元年 | 1854年 | 40歳 | | 彦根 | 10月、京都・淀を巡見 |
安政3年 | 1856年 | 42歳 | | 江戸 | 8月、アメリカ総領事ハリスが着任。通商条約締結を求める |
安政4年 | 1857年 | 43歳 | | 彦根 | 7月ころ茶の湯論の集大成『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』を完成させる |
安政5年 | 1858年 | 44歳 | | | このころ、将軍継嗣・条約調印の問題で、一橋派と南紀派が対立 |
安政5年 | 1858年 | | | | 2月 老中堀田正睦が上洛するが、孝明天皇より条約調印の勅許得られず |
安政5年 | 1858年 | | 大老 | 江戸 | 4月23日、大老職に就任 |
安政5年 | 1858年 | | | | 6月19日、日米修好通商条約を調印 |
安政5年 | 1858年 | | | | 8月8日、孝明天皇、幕府の条約調印を非難する勅諚(ちょくじょう)を幕府と水戸藩に下す(戊午の密勅) |
安政5年 | 1858年 | | | | 9月から戊午の密勅など反幕府行動に関わった者を逮捕(安政の大獄) |
安政5年 | 1858年 | | | | 12月24日、孝明天皇、条約調印を了解する勅諚を出す |
安政5年 | 1858年 | | | | 12月26日、将軍家茂より、功績をたたえられて鞍・小刀を拝領する |
安政6年 | 1859年 | | | | 8月、戊午の密勅に関わった咎(とが)で、徳川斉昭や水戸藩士らを処罰する |
安政7年 | 1860年 | 46歳 | | | このころ御用絵師に自分の画像を描かせて、井伊家菩提寺の清凉寺に納める |
安政7年 | 1860年 | | | | 3月3日、登城途中に襲われ暗殺される(桜田門外の変) |
万延元年 | 1860年 | 没後 | | | 3月30日、大老職を免じられる |
万延元年 | 1860年 | | | | 閏3月30日、直弼の死が公表される |
文久2年 | 1862年 | | | | 7月、文久の幕政改革。直弼と対立した一橋派が幕政を掌握する |
文久2年 | 1862年 | | | | 閏8月、彦根藩、京都守護の任を解かれる |
文久2年 | 1862年 | | | | 11月、幕府より直弼政治が非難され、藩領のうち10万石減知の処罰を受ける |