新しい人物像

近年、彦根城博物館を中心に、井伊直弼の事績と人物像を見直す活動が進められており、これまでとは違う新たな直弼像が発信されています。
ここでは、最近明らかになってきた直弼の大老政治の様子を紹介します。

ペリー来航 嘉永6年(1853年)6月

嘉永6年(1853年)6月、ペリーの率いる4隻の軍艦が浦賀に現れ、日本に開港と貿易を要求します。老中・阿部正弘を中心とした時の政権は、その対処策について広く諸大名らに意見を求めました。これは、将軍の家臣である譜代大名が幕政を担うという幕政の方針を変えるものであり、これを契機として外様大名の雄藩や徳川一門などの発言力が強くなっていきます。
井伊直弼は、6月1日に彦根に帰国したばかりでしたが、幕政顧問にあたる溜詰(たまりづめ)という立場から、アメリカ使節の来航に対処するため、7月には江戸に向かい、幕府老中の求めにこたえて何度も意見を述べました。

幕府内部の対立 安政4年(1857年)〜5年

日米和親条約締結の後、ハリスは下田に赴任すると、幕府に通商条約の締結を求めました。武力を背景にしたこの要求は国家の危機であり、これまで幕政に参画していない外様大名・徳川一門(一橋派)たちは政策決定の場への参加を要求しました。具体的には、将軍家定の跡継ぎとして、水戸・徳川斉昭の子どもである一橋慶喜を推薦します。また、老中・堀田正睦(まさよし)が通商条約の許可を孝明天皇に求めるため上京すると、一橋派は朝廷へ自分たちの考えを説き、その結果、条約の許可が下されませんでした。それまで幕政を担ってきた幕閣・譜代大名にとって、彼らの行為は幕府体制を揺るがすものと映ったのでした。

直弼の大老就任 安政5年(1858年)4月23日

安政5年4月23日、井伊直弼は幕府の大老職に就任しました。その背後には、両派閥による激しい抗争がありましたが、直弼が後に聞いたところによると、老中・堀田正睦が将軍へ結果報告した際に、天皇の勅許を得られなかったため、一橋派の松平慶永(よしなが)を大老に就けようと将軍に申し出たところ、将軍家定は「家柄と申し、人物と申し、大老は掃部頭(直弼)しかいない」と言い、直弼の大老就任が突然決定したといいます。将軍家定は、政治家としての資質が低いと評されることが多い人物ですが、幕政は将軍の家臣である譜代大名・幕臣が担うという根本原理を正しく理解しており、堀田の提案を退けたのでした。

通商条約調印 安政5年(1858年)6月19日

直弼が大老に就任すると、将軍跡継ぎ選定と条約調印の問題解決に向けて速やかに方針を定め、解決に向けて取り組みました。将軍跡継ぎは将軍家定と相談して紀伊徳川家の慶福(よしとみ)に内定し、条約調印については諸大名の意見をまとめて天皇の勅許を得るための政治日程を組んでいました。
ところが、6月、中国で清とイギリス・フランス軍との戦争(アロー戦争)が休戦状態となったことを受け、米国総領事ハリスは軍艦で神奈川沖までやってきて、英仏軍がまもなく日本へ押し寄せると勧告し、即時の条約締結を迫りました。6月18日、江戸城内では幕閣が集まり評議が行われました。そこでは、幕閣の多数が即刻調印を訴えますが、直弼は天皇への説明を優先するよう主張し、天皇へ説明するまで調印を引き延ばすことで方針が決定しました。しかし、ハリスに応接する外交官の岩瀬忠震(ただなり)・井上清直が万一の際は調印してもよいかと尋ね、直弼が致し方ないと回答すると、両名はハリスのもとに向かい、19日に調印しました。

戊午の密勅と安政の大獄 安政5年(1858年)8月〜

幕府が条約を調印すると、直弼政権に反対する一橋派が開国を快く思わない天皇と手を結んで行動に出ます。一橋派が公家に働きかけた結果、8月8日、孝明天皇より、直弼の幕府運営を批判する勅諚が出されました。さらに、水戸藩へはこの内容を諸藩に伝えるよう添書が下されます。これを「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」といいます。天皇が幕政を批判し、一大名に直接命令することは、200年以上維持してきた社会体制を否定するものであり、幕府体制の根幹をゆるがす犯罪行為でした。そのため、幕府はこれに関わった水戸藩の家臣や反幕府の政治活動をする者を捕らえ、処罰しました(安政の大獄)。

条約勅許問題 安政5年(1858年)12月

6月の条約調印に対して、孝明天皇は8月に戊午の密勅で怒りをあらわにしますが、直弼は老中間部(まなべ)詮勝(あきかつ)を上京させて、孝明天皇に幕府の意図を説明します。その結果、12月には幕府の条約調印を了解したという天皇の沙汰書が下されました。そこには「心中氷解(しんちゅうひょうかい)」(心の中の氷のようなわだかまりが解けた)と記されています。しかし、間部の説明は、軍備を増強して将来的に再び攘夷をおこなうというものであり、この内容を対外的に公表できないという欠点が生じました。また問題を先送りにした形になったため、文久3年(1863年)、孝明天皇は攘夷実行を幕府に求め、将軍家茂(いえもち)は将軍としては230年ぶりに上京することになります。すでに朝廷は将軍を京都に呼び寄せられるほど政治的な力を持ち、次第に京都が政治の中心地となっていくのでした。

密勅返納問題から桜田門外の変へ 安政6年(1859年)1月〜12月

安政5年12月に孝明天皇は条約調印に対して了解の意を示しましたが、戊午の密勅が依然として水戸藩の手元にある状況は、幕府にとってゆゆしき問題でした。そのため幕府は、水戸藩に密勅を返納させる勅命を下すよう朝廷に働きかけますが、文言の調整に手間取り、安政6年12月になってようやく勅命が下され、幕府から水戸藩へその旨が伝えられました。幕府の返納要求に対して、水戸城内に移された密勅を断固死守しようと、藩内過激派の藩士が水戸郊外の長岡宿に集結します。藩は彼らを鎮めようとしますが、その中心人物が脱藩して江戸に向かい、直弼を暗殺して幕政を改革しようとする計画を立てました。
安政7年3月3日、この日は江戸城に諸大名が登城して上巳(じょうし)の節句の祝儀が行われます。直弼は襲撃の情報を得ていたとも言われますが、大老が登城しないわけにはいかず、予定通り登城の途につき、水戸脱藩17名と薩摩脱藩1名に襲撃されたのでした。